『不安の概念』(9) キェルケゴール学者はパラフレーズできるか

「レポートの書き方」みたいなのでは、学生様たちに「パラフレーズしろ、パラフレーズできてはじめてその文章の内容がわかったといえるのだよ」みたいなことを言ってるわけですが、キェルケゴール関係だと学者様たちもほとんどパラフレーズせず、キェルケゴールが書いたものの抜書き集みたいになってしまう。これはほんとうにやばい。

たとえば、すごくえらい大谷長(まさる)先生が『不安の概念』について解説しているものをめくってみる。

先生はこんな感じ。まずキェルケゴールを引用する。

「無垢において精神は人間の中で夢見つつある。このような状態の内には平和と安息がある。しかし同時にそこには別の何かがある、それは何であるか?無である。しかし無はどのような作用を持っているのか?それは不安を産み出す。無垢が同時に不安であるということは、無垢の不快秘密である。夢見つつ精神は自分自身の現実性を投影する、だがこの現実性は無である。しかしこの無を、無垢は絶えず自分の外に見ているのである。」(345f.)

この引用はよい。しかしそのあと大谷先生はこう書く。

無垢の無が不安を産み出すのは、夢見る精神が精神として自分自身の現実性を外に投影しようとする形が不安なのであり、つまり、精神の現実性が不安において外に自らを投影するのは、不安が、前配置されたものの予感の内に、成人の自由の可能的な現実性の実現に向って、その面影の懸念憂慮に満ちた投射の試みをここで先ずおこなっているのである、そしてこれは「不安は可能性の前の可能性として自由の現実性である」(346)と言われる所以であるし、「精神は自分自身に対して不安として関係する。」「無知は精神によって規定された無知である。」(348)と言われるものであり、そして、本稿の以下に説明する前配置の予感の最初の眴(めくばせ)である。(大谷長、「無の不安と有の不安」、大谷長著作集第5巻『キェルケゴーイアナ集成』、創言社、2003、pp. 28-29)

これでいいのかどうか。私はよくないと思うです。でもこういうのがキェルケゴール業界の標準だし、実は世界的にもこういうのは多い。

大谷長著作集 (第5巻)

大谷長著作集 (第5巻)

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大谷 長
創言社

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