『不安の概念』(3) キェルケゴールの問いは

んでまあ、もどって、『不安の概念』の最初の2章で扱っているのは、キリスト教では人間はみんな罪人です、ってことになってますが、人間はどうやって罪人になるのですか、という問いだと思うんですわ。これ、つまり原罪の話ね。

人間にはアダム以来の原罪があるから罪を犯します。われわれはアダムとイブから原罪を遺伝されちゃってます。でもんじゃ、アダムはなぜ最初の罪を犯したのですか。これがキェルケゴールの問いね。

まあキェルケゴールのパパもけっこう悪い人で、奥さん死ぬ前に女中さんに手を付けていて、奥さん死んでから女中さんを奥さんにすげたみたい。それがキェルケゴールのママね。まあ最初の奥さんを殺したとかってことはないと思うけど、なんかやばい。キェルケゴールはそういうパパの血を継いでいるのです。そういう彼の個人史的な事情があるってことはいろいろ指摘されているところ。キェルケゴールのなかでは罪とセックスはわれわれにはわかりにくい形で結びついているのはわかる。

もう一回繰り返すと、キェルケゴールが考えるところでは、人間はアダム以来の原罪をおっちゃてますから罪を犯して罪人になるのです、っていう説明を一応みとめるにしても、んじゃアダム自身はなぜ罪を犯したのですか、ってことになる。最初の罪を犯した結果エデンの園を追放されたのはしょうがないとして、なぜそれまで無垢で原罪なんか負ってなかったアダムが、神の命令に反するという罪を犯したのだろう。

これ、私はもちろんよく知らないのですが、キリスト教では大問題なわけですよね。キェルケゴールはキリスト教の大問題と言われるものを著作で扱っているわけです。『恐れとおののき』ではアブラハムが神様から命令されて息子イサクを殺そうとした話(いわゆる「アケダー」)、『反復』ではなにもわるいことをしてないヨブがひどい目に合う話、そして『不安の概念』では原罪の教義。キェルケゴール前期の3つはキェルケゴールのキリスト教に対する懐疑の表明だと見ることができる、っていうか私はそう読んでるわけです。キリスト教は理解できない。

実際、原罪の教義ってのは、キリスト教では理性によっては理解できないものである、みたいにされてるんですね。ルターのシュマルカルデン条項の「原罪はいかなる人間理性によってもそれを知るよしなく、ただ聖書の啓示によって認められ、信じられるところの深く、いとわしい本性の堕落である」みたいなのが『不安の概念』でも引用されてるです。それは理性ではわからん。


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