『不安の概念』(2) セックスセックスぅ

『不安の概念』は人間の「自由」とそれを前にした不安の話だ、っていうのがまあサルトルとかの読みなんだと思うんですが、本当にそうかな、っていう疑問がある。そうじゃないかもしれない。

『不安の概念』はわれわれの性欲とそれにまつわるキリスト教の「罪」の概念、われわれの罪悪感の話なんじゃないか。まあこういうこと書くと、「江口はすぐにセックスセックス言ってる、セックスと言ってみたいだけではないのか」みたいに言われちゃうわけですが、まあそういうのもあるんですがそれだけでもない。

たとえばこういう印象的な一節がある。

……だから罪性は感性ではない。そんなことはありえない。しかし罪なくしては性もなく、性なくしては歴史もない。完全な精神には性もなければ歴史もない。だからこそ復活において性的区別も’なくなり(マルコ12:25 )、そしこのゆえに天使もまた歴史もまた歴史をもたないのである [1]第1章第6節、翻訳は中公世界の名著の田淵義三郎先生のを使う予定。

英語だと、

So sinfulness is by no means sensuousness, but without sin there is no sexuality, and without sexuality, no history. A perfect spirit has neither the one nor the other, and therefore the sexual difference is canceled in the resurrection, and therefore and angel has no history.

デンマーク語で読む気はないけどこんな感じ。

Syndigheden er da ikke Sandseligheden, ingenlunde, men uden Synden ingen Sexualitet og uden Sexualitet ingen Historie. En fuldkommen Aand har hverken det Ene eller det | Andet, hvorfor jo ogsaa den sexuelle Differents er hævet i Opstandelsen, og hvorfor heller ingen Engel har Historie.

「性」って訳されてるのはSexualitet。性欲や性的活動一般を指すと思う。まあこういうことが言われる理由はこれからおいおい第1章〜2章読みながら解釈していくけど、アダムとイブがいわゆる「堕罪」、神の命令に背いてアップル食べちゃって、その結果自分たちが裸であることに気づき、(性的な)恥の感覚や性欲をもつようになり、セックスうするようになり、子供を生むようになり、死ぬようになった。これによって歴史がはじまったわけです。それまでは歴史なんてものはなかったけど、歴史は罪の自覚と生殖とともに始まるのだ、みたいな感じね。これがセックスの哲学でなくてなんであろうか。

(ノンストップライティング、ここで15分ちょっと)

ちなみに田淵先生がつけてる「マルコによる福音書」12:25は「彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」ってことらしい。おもしろいね。まあわれわれがアフターライフで復活したときに、性欲とかセックスとかあると、この世と同じようにいろいろ面倒なことしなきゃならんですからね。性欲なくなるのはいいですなあ。

(ここでプリンス様のLet’s Go Crazy聞いてください。)

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1第1章第6節、翻訳は中公世界の名著の田淵義三郎先生のを使う予定。

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