プラトン先生の『パイドロス』でのよいエロスと悪いエロス、または見ていたい女の子と彼女にしたい女の子

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

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プラトン
岩波書店
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プラトン先生の『パイドロス』の話については、最初にあらわれる弁論家リュシアスの「少年は自分に恋していない人間に身をまかせるべきである」(= セックスは自分の利益になるような相手とするべきだ→だから君に恋していない僕とおつきあいしてセックスしましょう)という議論について、けっこう昔に一部だけ書いたんですが、この本おもしろいけど全体にかなり難しいんですよね。まあプラトン先生は詩人っぽくてでよくわからん。情熱がからまわりしているようなところがあるっていうか。アリストテレス先生なんか落ちついてて大人だなって思いますけどね。

まあそもそもプラトン先生はエロスにとりつかれた人で、かつ先生に言わせればエロス(恋愛)は狂気なんすわ。

〔恋する者は〕母を忘れ、兄弟を忘れ、友を忘れ、あらゆる人を忘れる。財産をかえりみずにこれを失なっても、少しも意に介さない。それまで自分が誇りにしていた、規則にはまったことも、体裁のよいことも、すべてこれをないがしろにして、甘んじて奴隷の身となり、人が許してくれさえすればどのようなところにでも横になって、恋いこがれているその人のできるだけ近くで、夜を過そうとする。(252A)

まあおそらくそういうタイプの恋愛をみんながするわけじゃないけど、なんか延々恋バナはじめちゃったり、瞳孔開いちゃったりする人はいるように思いますね。うしじまいい肉先生というひとが「恋愛では気が狂わないように注意しましょう」みたいなことを言ってるんですが、まあ狂っちゃう人っている。

前に紹介したリュシアス先生の言い分はエロス(恋)はそういうふうに危険だから、冷静に自分の利益になる人と愛人契約とか結んでおつきあいした方がいいですよ、ってな話だったわけです。

そのあとどう進むかっていうとうまく説明できない。とりあえずそのあとソクラテスが恋愛の話を二回やるんですわ。私の素人読みだと、一回目は悪いタイプの恋愛、二回目は良いタイプの恋愛についてなんか言ってる。

非常におおざっぱにいって、恋(エロス)ってのは欲望ですよ、と。しかし人間のもってる欲望には、生まれつきの快楽への欲望と、後天的な善への欲望の二種類があるのです、てことらしい。

この快楽や身体的な美への欲望ってのはよくなくて、そういう欲望にしたがうことは有害だ、ということらしいです。そういう快楽への欲望に動かされていると、まず当然、快楽をもたらしてくれる相手にエロスを感じることになるわけですわね。んで、自分に逆らうような人ってのは不愉快だから、自分の言うことを聞くような相手が望ましい。自分より相手の方が優れてるってことになると自分のだめさを思いしらされたりするから、相手はダメな方がいい。なんかそういうのあるかもしれませんね。「お前はだめな女だから俺が守ってやる」とか「だめな人で私がいないともっとだめになっちゃうから」とかそういう感じですか。

さらに悪いことに、相手が精進して立派に偉くなると自分に快楽を与えなくなってしまうから、相手が立派になるのを妨げようとする。人間というのは、いろんな人々、特に立派な人々と交流しているとだんだん考え方とか向上するわけですが、それを好ましく思えない。「あんな奴らとはつきあうな」ですわね。さらに、自分だけを見ていたいから他の人間とは会うな、とかになるわけです。相手が孤独であれば自分を頼りにするしかないわけだし。肉体的にも快楽を求める人っていうのは、相手が柔和で色白で人工的な装いをしているのを好む。逞しい体はだめだ、みたいになっちゃう。

さらには、そういう快楽ってのはあんまり長続きしなくて、けっきょくそのうち慣れちゃってあんまりおもしろくなくなる。快楽のためにおつきあいしているんだから、快楽があんまりなくなっちゃったら捨てちゃおうってなことになる。

まあそういう話をソクラテスはまずするわけです。これ、一部は前に紹介したリュシアス先生の弁論と共通する部分がありますね。リュシアスは「恋(エロス)」より利益のある冷静なおつきあいがいいのだ、って言うわけだけど、ソクラテス先生はエロスにも二種類あって、悪いエロスの方はこんなだめな関係になりますよ、っていうわけです。

でもソクラテス先生はこの話途中でやめちゃうんですよね。なんか自分が考えてるのと違うぞ、ってことらしい。エロスにはもっとよい面があるよ、善いものを求めるエロスの方がいいものだよ、って話をするわけです。こっから先がものすごく面倒な話していて、私のような素人にはちょっと歯が立たない感じですね。

まあしょうがないので非常に簡単にいってしまうと、エロスはたしかに狂気なんだけど、よいエロスはよい狂気ですよ、と。人間の魂は二頭立ての馬車で、資質も血筋もよい白馬(欲望)とその反対の黒い馬(気概)、そしてその二匹を操る馭者(知性)で成立していて [1]『国家』でも出てくるいわゆるプラトンの魂の三分説。 、馭者が馬たちをうまくコントロールした場合、恋愛は当人と相手を高めるのです、みたいな。でもよくわからん。プラトン先生らしくなんか夢かうわごとみたいなことを言ってるようにも思えたり。

まあこれ読んでる人はこういうところまで興味あるかどうかわからないし、専門家の書いたもの読んでもらった方がいいかもしれません。確認してないけど、納冨先生のとかに書いてるような気がする。

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まあむしろ、恋愛にはこういうお互いにダメになっちゃうやつと、お互いが向上するやつがありますよ、っていうのはプラトン以来ずーっと日本の文科省教科書まで続く伝統があるわけですわ。まあ恋愛するなとは言えないから、お互いを高めあいましょう、みたいな。どうやってなにを高めるのかよくわからんですが。『相手と自分を高めるエロス』とかあったら読んでみるべきですかね。叶恭子先生あたりが書いてそうだ。amazonで売ってるだろうか。

数年前、こういうイラストがツイッターとかで流れてたんですが、これおもしろいですよね。

「見ていたい女の子」はかっこよくて強くて優れてる。見てたい。でも彼女にするには強すぎる。彼女にしたい女の子っていうのはそれほど優れてはいないし弱いしそれほど美人でもなくあんまりモテないかもしれない感じ。これって、上のプラトン先生の観察によく合ってますよね、ってな話。

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References

References
1『国家』でも出てくるいわゆるプラトンの魂の三分説。

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