ナカニシヤ出版「愛・性・家族の哲学」を読みましょう (6)

性 (愛・性・家族の哲学 第2巻)
藤田尚志 宮野真生子
ナカニシヤ出版
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古賀徹「恋愛するとどうしてこんなに苦しいのか:性的自己決定の限界」

フロイト〜ラカンにもとづいた恋愛・結婚論。これはやりたいことはわかるような気がするけど、読むのが苦しい論文。細かいこと(実は細かくない)が気になって読みにくい、っていうか私には読めない。パス。フロイト先生は読みよう書きようによってはいろいろおもしろいと思うんだけど、ラカン先生となるとお手あげ。現代思想はたいへん。

全体にこの『性』の巻は、学生向けの親切で教育的なものが収録されていて好感。「〜の哲学」でそういう性教育みたいなの書かなきゃならんのはおかしい気もするけど、いま大学でセックスの話ってちゃんとされてない気がするから重要よねえ。

 

 


家族 (愛・性・家族の哲学 第3巻)
藤田尚志 宮野真生子
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藤田尚志「結婚の形而上学とその脱構築:契約・所有・個人概念の再検討」

これも現代思想でたいへん。
そもそも「形而上学」とか使う必要があるのかどうか。これ言いかえると「人々の思い込み、あるいは固定観念」ってことだけど、それなら「形而上学」なんて使う必要がないと思う。「人々の無意識に潜む「結婚の形而上学」を露呈させつつ、現在結婚に起こりつつある変化の微細な徴候を見逃さず書きとめていく作業、それが私の考える「結婚の脱構築である」p.6は言葉の「定義 」ではないんだろうけど、「結婚について我々が勝手に思いこんでいることを指摘し批判する」ぐらいでだめですか。「哲学」をなのってこうした難しい言葉遣いをするのはとてもよくないと思う。(具体的には言葉づかいの難しさにびびって「哲学」関係の一般読者や興味ある人々が減る、学生様は「わからないものだ」と思いこむ)。

話はデリダ先生が、「わしら、一対一の「結婚」から、性も数も制限されない市民的結合(Civil Union、フランスのPACSみたいなやつ)に移行しましょう」みたいなことを言ってるのを中心にしてるらしい。でも藤田先生に言わせば、それって(非一対一ってのに関しては)「当面の実現可能性が低過ぎる」と。それはなぜでしょうか、という話。この問いちょっと微妙で、最近ポリアモリーとかはやってるし、昔から昨日書いたような共産コミューンみたいなのあるし、それにいまだに一夫多妻の社会は少なくないし、多夫一妻は数が少ないけどあるんで、どうなんだろう。

んで、結婚には三つの「公理」があるてんだけど、これも「公理」の辞書的な意味とかけはなれていて、哲学って名乗ってこういう言葉づかいするのは哲学教師としてはやめてほしいと思う。公理ってのは「数学の領域で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題」っていう説明はふつうではないと思う。「自明の真理として承認され」のところを「真理だと仮定され」ぐらいっすか。こういうの、もし学生様のことを考えてるのであれば、やっぱりちゃんとしてほしい。長い伝統のなかで、きっちり考えぬかれた言葉を、たんなる比喩的な表現として使うのはほんとうによくない。そういうのは哲学じゃない。「我々の思い込み」でいいじゃないっすか。「我々は結婚について思い込んでいることが三つあります」でなにが問題なのか。こっちの方がシンプルでかっこいい。

んでそのわれわれの結婚に関する三つの思い込みは、(1) 契約・約束、(2) 所有・優先権、(3) 人格・個人ってことらしい。
(1) それは契約・約束である、(2) 結婚によって人は相手を所有する、はわかる。(3)はわかりにくくて、義務や責任の主体として措定され確定される「個人」がいる、ってことらしい。「措定」(おそらくposit)の意味私わからんけど、まあ「(1)や(2)の主体や対象としての「個人」っていうのがはっきりしてますよね、ってことだと思う。これはなんかたしかに形而上学っぽい。

さて、(1)の「結婚ってのは契約だ」って思い込みの問題点はどこだろう。前にも書いたように、カント先生なんかは結婚てのは相互の性的器官や能力を排他的に使う契約です、みたいなことを言ってる。ところがヘーゲルはそんなもんじゃないよ、結婚は契約から出発するけど、それをアウフヘーベンするものだよ、みたいなことを言ってるらしい。だって、結婚によって二人は一つになるんだからね、一つになったらもう契約する相手がいなくなるでしょ、とかそういう感じだろう。これはヘーゲル先生らしい議論ですね。藤田先生の議論はそのあとデリダが出てきてよくわからなくなる。「ヘーゲル的な結婚は、純粋な二者関係では成立せず、必ず媒介を必要とする。にもかかわらず、結婚が契約ではなく、二つの人格が一つになろうとする運動である以上、結婚は媒介を排除しようとするものでもある」とか「契約が約束の交換だとすれば、約束は引力の贈与である」とか。まあこういう書き方があるのはわかるけど、学生様とかどういう顔で聞いてるんだろうと思いますわ。

こういうわかるようなわからないような議論がわからないのは、「二つの人格が一つになる」っていうことが、「具体的には」どういうことかって説明してくれないからですよね。言葉だけならなんとでも言える。ずっとそういう言葉と言葉の結び付きだけを偉い人から示されれば「そういうもんなんかな」と思ってしまう。「二つの人格が一つになるのだ!」「……一つになるのだ」「一つだ!」「……一つだ!」「ひとつだね」「一つなの?」「もちろん一つさ」「えー」「ひとつひとつ」「ひとつー」。これはあぶない。学生様には、正気になって「えと、ちょっと待って。二つの人格が一つになるっていうのは、具体的にはどういうことですか?」って聞けるようになってほしい。

そのあとで坂爪真吾先生の「スキンシップもセックス」論が紹介されるけど、つながりがよくわからない。

(2) 「結婚すると相手を所有します」はなぜだめですか。まあこれはだめですわね。マルクスの話とか出てくる。これはまあわかりやすいんちゃうかな。アドルノ先生の「恋愛における優先権」のぐじぐじした文章も、読み方がわかってればまあおもしろい。これはまあ「すでにつきあってる人がいるからって俺が断われるのはなだろう」みたいな話。そのあと信田さよ子先生が出てきて、これもつながりがよくわからない。

(3) 「結婚する主体の個人ってのがいます」これはよくわからない。まあ人の通時的同一性の問題(昔の私と今の私、将来の私はずいぶんちがうものなのに同じ人なのはなぜか、どういう基準で同じ人なのか)みたいな問題はあるし、哲学っぽい。昔愛しあって結婚したけど、私も彼もずいぶん変わってしまったのに、なぜ昔の約束にしばられなばならないのか、みたいな問題は哲学的に非常におもしろい。だからそういうふうにやってくれるんかな、と思ったけど、藤田先生がなにを考えているかはちょっとよくわからなくて紹介できない。あ、ポリアモリーはここに出てくるんだった。でもこれ「個人が存在するかどうか」の話とは関係ないような気がする。結婚とかセックスとか基本的には個人がするもんだわね。我々は物理的に身体にしばられてるから、身体を使うのについてはそれを単位に考えないとねえ。でもまあいろいろ哲学的な議論をする方向はありそう。

全体にこの論文は非常に難しくて、ふつうの読者は読めないと思う。


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