ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (2)

愛 (愛・性・家族の哲学 第1巻)
藤田尚志 宮野真生子
ナカニシヤ出版
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福島知己「恋愛の常識と非常識:シャルル・フーリエの場合」

実は刊行前に目次出たときから一番楽しみにしてたのがこの論文で、フーリエの『愛の新世界』っていう奇怪な大著の翻訳者本人のよる解説っていうか部分的紹介。

増補新版 愛の新世界

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フーリエ先生の『愛の新世界』って本はほんとうに奇怪な本で、図書館には入れてもらったもののどうにも読めない。用語法が異常だし話の展開も異常だし。フーリエ先生は「幻視者」みたいに言われることがあるけど、ほんとうに想像力豊かで、ほとんど妄想に近いものを書きつけている感じ。翻訳もたいへんだったと思う。でもフーリエのその幻視かもしれないヴィジョンっていうのはすごく重要だとは思うわけです。セックスや結婚とかに関して、その後の性的に解放されたコミューン形成とかにもかなり影響与えてるんでしょうね。まあとにかくぶっとんでいる。

福島先生が紹介しているのは、「聖英雄ファクマ」さんのお話。もちろんフィクション。福島先生の紹介の最初のところ書き写すだけでそのぶっとびかたがわかると思う。

「世界的に調和世代が訪れた未来、遍歴騎士団に属して世界各地を転戦して回る人々の一人、美しき偉丈婦ファクマが、小アジアの都市ニニドスに捕虜として捉えられた。彼女が属する黄水仙群団・隊団はおよそ千人の冒険者からなり(地名2行半省略)を経由して、西ヨーロッパに抜ける予定だった。

前哨としてクニドス周辺を探索中のファクマたちを「チェス・ゲームに比すべき陣取り合戦の結果」として捕虜にしたバッコス巫女たちは、「恋愛に関して捕虜たちを所有する権利の一切」をこの後二十四時間にわたってもつが、早く攻撃方に戻りたいので、権利の譲渡を宣言した。捕虜が主人を変えるたびに捕囚期間は常に半分に減額される。捕虜と恋愛する権利を得るため恋愛法廷が開廷されることになった」

すごいっしょ。『シドニアの騎士』みたいっすね。「奇居子(ガウナ)」とか「衆合船(シュガフせん)」とか出てきそう。これでも福島先生がまだかなり抑えてくれた記述になってる。フーリエ先生の本文は読むドラッグみたいな感じ。

福島先生自身もこの世界のとりこまれているふうがあって、この「恋愛法廷」ってのは、「半日間の恋人を決める集団見合いである。街コンであり、出会い系である」って表現している。いやそうじゃないっしょ。奴隷とセックスする権利をどうするか、ってはなしっしょ。奴隷市場じゃないっすか。

ファクマさんは捕虜っていうか奴隷になってしまって、半日だれかの「恋愛」の相手をしなければならないわけだけど、官能愛=唯物愛はいやで、心情愛ならする、なぜなら1ヶ月肉欲の日々を送ったので疲れているから、みたいな。わけわからんです。求愛者っていうかそういうのが8人いて、しょうがないから8人じゃなくて1人なら相手してやるっていう。でも8人の男の話がまとまらないので、んじゃ誰にもやらせませんし恋愛もしません、って宣言する。すると一人がショックで失神してしまう。ファクマさんはそれをかわいそうに思ってうめあわせとして恋愛してあげようと思う。しかし他の男たちからそれはずるいと責められて、人々を苦しめたという掟に反する罪を犯したので、その償いに54人と唯物愛=セックスすることになる。

わけわからんです。いやすごい世界。哲学はたいへんです。

まあこういうフーリエ先生の奇怪なヴィジョンの背景にあるのは、19世紀ヨーロッパでの結婚制度や売春なんかのいろんな問題なんでしょうけどねえ。福島先生の解説もなかなか難しくて、なんとも論評しにくい。

最終節「幸福の条件」を見てみると、福島先生の読みではフーリエは恋愛を政治的に考えて一種の公共事項とみなすべきだと考えていると。まあ世の中なかの不幸の大きな部分はモテないとかセックスできないとか結婚できないとか、そういうのによっているので、恋愛を公共事業にしてしまえばそうした不幸が減る。これがフーリエ先生的な計画セックスですわね。

まあ実際そういう考え方によって、共産村を作ってセックスの相手を計画して毎日変える、みたいなのは19世紀におこなわれていて、あんまりうらやましくないけど話はおもしろいです。フーリエ先生と福島先生のこれを読む前に、下の本読んでおくとこうしたぶっとんだ話が、現実とどう関係しているかがわかって、そのおもしろさがわかるんちゃうかなと思います。

 

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あと蛇足だけど、「ブックガイド」で映画『ドッグヴィル』について「結末の惨劇には戦慄せざるをえない」っていうのもものすごく違和感がある。そこじゃないでしょ、ってな感じ。全体にこういうずれた感じがあって、興味深い。

(追記)

ちなみに、p.125で論じられているキェルケゴールの『恐れとおののき』でのアガメムノンやエフタは、「共同体から後世称賛され、栄光を得られると考えているため」に自分の子供を犠牲にするのではない。彼らは共同体の命運をかけた闘いの場で神に帰って最初に戸口から出てきた人間を生贄に捧げるという個人的というよりは民族共同体としての誓いを立てて敵に打ち勝ったために、出てきた娘を犠牲にしなければならなかったわけだけど、それは彼らが(やむをえず?)誓いを立ててしまったからであって、個人としてみんなから称賛されるためではない。

(さらに追記)

功利主義の理解もちょっと問題があって、p.124の「8人の求婚者たちは……自分の幸福を追求しているだけであり、このような要求を経なければ最大幸福の計量もできないわけだから、その意味では功利主義原理にしたがっていないわけではない」もわかりにくい。もちろん欲求や選好を表明しないと功利計算できないってことなのだろうけど、それ自体は功利の原理とは関係がない。「(多数の利益に仕えるという)統一の掟も八人の利己主義者の行動も原理的には同じ」になるというのは意味がわからない。

またベンサムが同性愛を刑罰で禁じることに反対したわけだけど、「その理由はそれが私的な問題であって、法律の対象になじまないから」ではないはず(これはちゃんとした自信がないけど)。こっそりやられている同性愛を法的に罰する利益がなく、不利益は大きいからのはず。快楽はどんな快楽でもそれ自体として価値がある。さらにベンサムは同性愛などが人口抑制などに有益だとかって話もしているはず。

ちなみにベンサム先生はフーリエ先生と同じようにぶっとんでるし言語感覚が異常な感じがあるけど(どちらも新しい制度の設計や、造語・新語が好き)、そんな奇怪な空想はしないわねえ。タイプが違うんだな。

 

 


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