ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (1)

藤田尚志・宮野真生子「愛・性・結婚の哲学」シリーズ3巻本ってすばらしいものが出版されて、セックス哲学に関心をもつ者としてよろこんでいます [1]ぼやぼやしてたら先越されちゃった 。偉い。すばらしい。

そのうち2冊は執筆者の先生たちから献本いただいて(ありがとうございますありがとうございます私のようなものにありがとうございます)、書評や紹介書かねばと思ってたんだけどおもしろいけどけっこう難しくてなかなか書けない。でももっと売れてこの分野に読者が関心もってほしいから、ちょっとずつ紹介と短評してみたいけど、けっきょく簡単な読書ノート。私が書くとどうしても批判的になってしまったり茶々入れたりしてしまうんですが、そういうのは差し引いてください。おもしろくてたいへんよいシリーズです。まじめな書評はいずれ書きたい。

まずは『愛』の巻の論文3本から。

近藤智彦「古代ギリシア・ローマの哲学における愛と結婚:プラトンからムソニウス・ルフスへ」

近藤先生の関心は同性婚にあるようで、ムソニウス・ルフスという古代ローマの哲学者の結婚論を中心にして、現代のカソリック哲学者ジョン・フィニス先生とフェミニスト哲学者マーサ・ヌスバウム先生の論争を検討したりプラトンに遡ったりかなり複雑な構成の本物の哲学論文で、概説ではなく、一般的な読者には歯が立たないように思いました。実は私自身も歯が立たなかった。読者としてはとりあえずプラトンの「エロース」やら「合一」や「産出」やら解説してアリストテレスのフィリアと家政やって、のちにギリシア社会とローマ社会での「(エロティックな)愛」と「結婚」の地位の変化を説明してから、必要ならムソニウス先生を検討して、それがキリスト教っていうか西洋文化に及ぼした影響みたいなのを論じる、ってふつうの順番にしてほしかった。そもそもギリシアとローマでは女性の地位がぜんぜん違うと思うし。でも近藤先生の思考の足跡みたいなのが見えて勉強になる。

小笠原史樹「聖書と中世ヨーロッパにおける愛」

分担のなかで、古代ギリシアの「エロース」の話は小笠原先生がやることになったわけですわね。エロースは足りないものを求める欲求としての愛です。それは美に向かいます、みたいな。んで聖書のアガペーってのは神から人間への愛。隣人愛とか。まあキリスト教の人が「愛」の話すると、かならずこういうふうになるんだけど、正直これってどうなんすかね。こういうのってドニ・ド・ルージュモン先生あたりがやりはじめた対比なんだろうけど、これって(おそらく)このシリーズ全体でやりたかった性欲と関係するエロティックラブの話とどの程度関係あるんだろう、っていつも思うです。あと、まずはいわゆる旧訳聖書でのいろんな恋愛話・エロ話は紹介してほしかった気はする。サムソンとデリラぐらい紹介してあげてほしい。サムソンかわいそうすぎる。

中世となるとアウグスティヌス先生がやっぱりセックス哲学者としてものすごく重要なわけですが、エロス/アガペーに対応するクピディタス(欲望)/カリタス(愛)、っていう対比のなかで話が進む。もっとアウグスティヌス先生がいろいろ悩んだ話書いてほしいし、例の原罪と性欲の関係の話も欲しいと思いますた。まあこのクピディタスを克服してカリタスとか隣人愛とか実践しなきゃなりません、ってな感じで中世思想は進みます。

カペラヌス先生の『宮廷風恋愛の技法』はオウィディウスの『愛の技法』と同じく、とてもおもしろく滑稽な読み物なのですが、この紹介だとなんか真面目な本みたいであれですね。アベラールとエロイーズの話も純愛ってよりはかなりひどい話(アベラール先生はこの件に関しては善人とは言いがたい)なわけですが、そこらへんもあんまり批判されてない。でもまあ愛ってのを宗教的に理解しようとするとまあこういう感じになるんでしょうか。もっとエッチな話が読みたかったけど、キリスト教学や宗教哲学の伝統の枠内で恋愛やセックスの話をするのはけっこう難しいのかもしれない。まあ中世ってたって1200〜300年ぐらいあるから一章でカバーするには広すぎる気がするけど、ポイントをうまくおさえてある。

アウグスティヌスか、アベラールか、どっちかにしぼった方が読者は理解しやすかったかもしれない。中世ヨーロッパといってもいろいろ厳しいこと言われながらみんな楽しく邪悪なセックスしていた、っていうかみんなめちゃくちゃしてから禁止したり勧告されたりしたわけで、そこらへんの歴史的事情もちょっと紹介してほしかった気はします。エッチな告解の話とかもおもしろい。フランスで研究が進んでいて、藤原書店あたりからおもしろい本がたくさん出てますね。キリスト教で結婚がどう扱われてるか、特に結婚が「秘跡」ってことになって離婚できなくなるあたりの話はおもしろいと思う。

佐藤啓介「近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論?:聖と俗、愛と情欲のあいだで」

小笠原先生がキリスト教中世までやってるので、佐藤先生はプロテスタント以降を担当する、って形になってるんだと思う。プロテスタントってことでルターからはじまってるけど、当然パウロに遡ることになる。愛と情欲の関係はどうなってますか、と。

実はこの論文には見落しがちなけっこう大きな欠陥があって、この「愛と情欲の関係はどうなってますか」という問いの情欲の方はわかるんですが、この問いが設定されるまで、「愛」の方はほとんど説明されていない。佐藤先生自身や研究会のメンバーは近藤先生や小笠原先生が設定した友愛みたいなやつか、カリタスみたいなやつって理解しちゃうんだろうけど、読者にはわからん。佐藤先生の説明では、パウロ先生もルター先生も特に夫婦間の愛情みたいなのについてはたいして言ってないわけで。パウロの「それぞれ、妻を自分のように愛しなさい」のところで出てくるけど引用内だから目に入りにくいしそれをどう理解すればいいのか、って解釈が必要だったと思うです。まあこの「自分のように愛しなさい」は「自分だと思ってエッチに愛しなさい」の意味ではないですわね。ははは。

さて、バルト先生によれば正しい結婚はどういう関係ですか。

(1) 結婚の決断がものすごく重要で、それは神の命令に服従することです。ちょっとわかりにくいんですが、まあ神様が誰と結婚するか決めてるわけでしょうが、それを「自由に」選択する、っていうそういう形になってます。佐藤先生はけっこう淡白な書き方しているんですが、まあ「運命の人」とか「私はこの人と結婚するために生まれてきたんだわ」って決断する、そういうのにすごい価値があるよ、ってことでしょうね。結婚式の日とかそういう高揚した感じをもつひとはけっこういるかもしれないし、それが神様信仰を強化するってのはありそう。

次に、(2) 生の交わりとしての結婚は「遂行すべき課題」とならねばならない、そうです。「生の交わり」っていうのはまあ性も交わってるんでしょうが、それだけじゃなくてまあいろいろ交わるわけですね。我々は結婚生活をうまくやるようがんばれねばならない、だってそれを神様が決めたことでもあり自分が決めたことでもあるから、みたいな感じですかね。たんに他人にとやかく言われずにセックスするためとか、子供つくるためとか、生活のため、とかってんではなく、人間どうしがちゃんと交わるのが目的であり課題であります。まあ神の計画なり予定なりをちゃんと遂行するのが課題。佐藤先生は「愛や情欲だけでは、神の命令を遂行し続けることはできない」っていうわけですが、それだとまあ遂行できるのはせいぜい3ヶ月や3年ぐらいでしょうからね。

(3) 正しい結婚は完全で全体的な「生の交わり」です。ここ「完全で全体的に交わる」って佐藤先生くりかえしているけどどうするのが正しく交わるのかよくわからない。まあいろいろ二人で生活をがんばる、価値観もすりあわせる、思ってることもちゃんとコミュニケーションする、とかそういうことなんですかね。ちがうような気がする。

(4) 結婚は排他的な生の交わりです。浮気とか不倫とかだめです。神様と人間の関係は一対一なので、それと同じように男女の関係も一対一であるべきだ、みたいな感じらしい。神様と人間の関係が一対一って言われると宗教的でない人間は「いや、神様はみんなの面倒見てるんちゃうか」って思ってしまうけどそういうわけではなく、信仰という形でつながるときは一対一なのだ、ってことだろうけど、それだったらセックスや結婚だって複数としても、それぞれについては一対一なんちゃうか、とかつっこみたくなってしまう。

(5) 結婚は永続的な交わりです。試験結婚とか許しません。佐藤先生ははっきり書かずに「当時の結婚に対する風潮」ってほのめかしているけど、このバルト先生の議論は1932年で、たとえば前にちょっと紹介したラッセルの『結婚論』が1929なので、直接の敵はラッセル先生あたりですわね。もちろん風潮っていうか当時の若者がいろいろしていたのもある。

とかってのが条件。異様なことに、夫婦間の愛情とかさっぱり入ってこない。これ佐藤先生は「端的に言って、バルトの結婚論において、愛はその本質を占めていない」って正しく指摘している。さっきの「愛についてはほとんど説明してないよ」っていうのは、バルト先生がほとんどなにも言ってないからかもしれませんね。でもそれならなおさら佐藤先生が結婚に必要な愛ってのはどういうタイプのものか述べておいてほしかった。

まあ横にそれちゃうけど、「神様が決めた相手とがんばる」っていう考え方の魅力もわからんではないんですよね。昔統一協会っというカルト団体とされている宗教が日本でも流行してたんですわ。この宗教では結婚がものすごく大事で、まず信者は基本的に童貞処女が望ましく、その人々は教祖が決めた相手と結婚する。集団結婚とかで100〜200人ぐらいずらーっとその日にあった相手と結婚式をあげる、みたいなんですげー。んでそれテレビでインタビューやってたの見たことあるんですが、インタビュアーが「はじめて会う人と結婚して大丈夫ですか、合わなかったらどうするんですか」みたいなこと聞いたら「神様が決めたことですから、合わないなりに二人で努力していくのです」みたいなの言ってて、感心しました。好きだほれたとかで結婚しちゃったら好きじゃなくなったら終りだけど、最初からそういうの期待してなければまあ別にロマンチック・エロチックにうまくいかなったとしても生きて交わりを保ちつづけることは可能なのかな、よくできてるな、みたいな。とりあえず神様を挟んでおけば安心。

もとにもどって、佐藤先生は「そんな正しい結婚できてる人いるんですか」って問いを建てる。バルト先生は「そんなやつおらん」とか答えてるらしい。すごいですね。ここにキリスト教の秘密がある。すごく高い要求をして、それに従えない人は罪人です。「人は誰もが情欲にまみれた「姦淫する者」であり、結婚に関する神の「命令」は、人を罪人として告発し続ける厳しい「誡め」でもある」(p.94)というとらしいです。でもキリストであられるところのイエス様はそれをゆるしてくれるのかもしれない。こういうキリスト教的なの、私はもう受けつけられない。でもキリスト教を信じるってのはこういうことなんだろうとは思うです。

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