フィッシャー先生は恋愛と性欲と愛着を分けて考えようとのことです

瀧浪ゆかり先生という、『臨死!!江古田ちゃん』で有名な優れたマンガ家の人がいます。ずいぶん前のツイートにこういうのがある。

上の瀧浪ユカリ先生のツイート、山形浩生先生や稲葉振一郎先生たちのツイートといっしょにリツイートされることが多いみたいでときどき目につく。(実はそこでこのブログが引用されてるのでエゴサで見つけちゃうんですが)

これに関しては以前ピンカー先生の文章を紹介しました。んで最近、人類学者のヘレン・フィッシャー先生の本数冊と論文を読みなおしていて、この先生偉いなあ、みたいなことを考えてます。ヘレン・フィッシャー先生は恋愛と性欲と愛着は「繁殖の異なる一面をつかさどるために進化してきた」みたいに解釈してるんすね。(『人はなぜ恋に落ちるのか?』)

(ロマンチックな)恋愛っていうのは、例の一部の人が時々あじわうという切望やら狂喜やら独占欲やら思いやりやら絶望やらをともなう複雑な高揚した感情・情動です。ドラマのテーマになるのはこれね。あの子じゃないと、あの人じゃないとだめなのー。

性欲ってのは性的な満足を切望する衝動で、まああれですわね。性欲は適切な相手となら誰でもセックスする動機となる。もっとも、どういう相手が適切かってのは男性と女性ではちがうかもしれんわね。男性にとっては女ならほとんど誰でも適切かもしれないけど、女性にとって適切なのはやっぱりなんか優れた遺伝的性質(ガタイがいいとかイケメンだとか知的だとか勇敢だとか)をもってる男性ってことになるのかもしれない。

もうひとつは愛着(アタッチメント)は二人の人間の絆をつくる感情で、これは二人で協力して、少なくとも一人の子供を(少なくとも)幼児期を脱するまで育てることができるようなかよくさせる感情だ、と。他に目移りすると時間とか食物とかエネルギーとかの資源を分散して使うことになって、子供育てるのが難しくなる。人間の子供ってのは他の動物にくらべてものすごく成長が遅いので、二人で全力で養育しないとうまく育たない。

恋愛感情はものすごく強い感情で、性欲を好みの相手一人に集中させて、貴重な求愛時間と各種のエネルギーを無駄づかいするのを防いでくれるわけだ。でも数年、フィッシャー先生に言わせば3年ていどしか続かない。

はやりの「脳科学」によれば、上の三つの感情・情動は関連するホルモンや脳内物質がちがっているかもしれず、性欲はテストステロン、愛着はオキシトシンやバソプレシン、恋愛感情はドーパミンとかノルエピネフリンとかセロトニンとかとそれぞれ強い関係があるみたいだ、とかってのがわかってきた(ことになっている)。

フィッシャー先生は人類学者なので、性欲と恋愛感情が別のものだっていうのをいろんな民族の調査結果から説明しようとする。たとえばケニアのタイタ族では性欲は「アシキ」で愛は「ベンド」だ、とか。ブラジルの町では「アモール」はつねに一人の女性を思う感情だけど、「パイシャオン」は「発情」ぐらいだし「テザオ」は誰かに強烈な性的魅力を感じることだ、とか。

さらに男性にチンチンに測定器つけてエロビデオ見せて脳ミソをfMRIにかけると、恋愛中の男性の脳スキャンの結果とは別の脳内活動が観察できるよ、みたいな。いいっすね、脳科学。いまとなっては牧歌的な実験だし、最近脳科学とか評判わるいけど、チンチンと脳がぜんぜん別のこと考えてないことがわかってとりあえずよかったよかった。

ちなみに測定器はこういう感じのもののはずです。詳しくはこの画像貼ってたページへどうぞ

ま実際、さまざまな男女間の(時に)身体的な接触に向けた欲求をなんでも「性欲」にしちゃうのはいくないですな。それは瀧浪先生の言うとおり。でも時に性暴力につながるような性欲・性衝動の背景に他の「本当の」欲求があると想定する必要はないんちゃうかな。やっぱり瀧浪先生のような観察力のすぐれた作家さんでも、男性的な、恋愛感情や愛着を背景にしない、見境のない性欲みたいなのは理解しずらいんだろうな、と前のブログと同じような印象をもってますです。はい。

フィッシャー先生の記述によると、

性欲は原始的な人間の衝動だ。いつ何時わき起こってるくるかもわからない。性的に満たされたいと願う気持ちは、車を運転しているとき、テレビで映画を見ているとき、オフィスでなにかを読んでいるとき、はたまたビーチで白昼夢にひたっているとき、いきなり遅いかかってくる。そしてこの衝動は、恋愛感情とはかなり異なる。

ってことらしいです。車運転中は危険ですね。ビーチでビキニでキンキンに冷えたスクリュードライバー飲んで白昼夢にひたってるときも別の意味で危険だ。ははは。

フィッシャー先生はおもしろいのでみな読むべきだと思いますね。

特に『愛はなぜ終わるのか』は情報が多くて、20年前の名著だと思います。これは2016年に新版が出てるので、翻訳も新しくしてほしいですね。旧訳は「男と女の政治学」って章が1章分カットされてることに今ごろ気づきました。フィッシャー先生は「フェミニスト進化心理学」みたいなのを提唱しているみたいで、フェミニズムもそういう刷新してほしい。

あとこのフィッシャー先生の三つ組に近いものを、ヒューム先生が『人間本性論』の第2巻「情念について」の第2部「愛と憎しみについて」第11節「恋愛の情念、すなわち両性間の愛について」でやってるので、興味ある人見てみてください。時間があれば解説書きたい。

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フィッシャー先生は恋愛と性欲と愛着を分けて考えようとのことです」への2件のフィードバック

  1. 恋愛したいならばかになれ

    うーんでも、最近のなんかの本でこれまでの世界中の研究結果を総合していった結果、最新の脳科学の最前線では、脳内の科学反応と実際考えてる事は、どうもイコールではない可能性が高くなってきた。だいたい半々だとか言ってた気がする。だとすると上の論の根拠のほとんどは絶対ではなくなるのであくまでフィッシャーの持論、傍証ということになる。
    自分はもっと単純に、キスもセックスもオナニーも惰性の共依存も無く、一切の性的要素を排除した上で、恋愛関係が成立した場合のみ、性欲と恋愛は別といえるのではないか、と思う。例えるなら、高度なAI同士が恋愛したら、かな?
    どこまでいっても自分の事しか考えられないのが人間なんだからさ。誰かの事を思ってると思い込んで実は自分の何かを満たしていくのが人間なんだよ。相互理解なんてのは言葉だけの物さ。
    個人的には大山鳴動してネズミ一匹じゃないけど、多くの人の言ういわゆる恋愛というものは、結局セックスしたいだけだとおもう。みんなそんな難しい事考えて生きてないよ。
    こういう恋愛とセックスは別だとこだわる研究が存在する事こそ、そう信じたい人たちの、最初から答えありきの自己正当化行動というか、壮大で過剰な美化運動みたいなものだと思う。

  2. 匿名

    私は、恋愛が生まれるのは、やっぱり根底に性欲ありきかなと思います。それこそ性欲の意味が幅広いのでそこで誤解が生じそうですが…。
    なぜ私がそう思ったのかと言うと、性欲が全人類から消えた世界を想像したからです。間違いなく、カップルの数は激減すると思います。恋は生まれるでしょうが、きっと極僅かかと…。
    私自身、恋人への気持ちは恋という感じがしないんですよね。一緒にいたい、愛しい、大好き…そんな気持ちを持っているのに、恋と言うと違う気がしてしまって。大好きな歌手、音楽、漫画に一目惚れして、夢中になった時こそ一番「恋してる」と感じました。

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