性表現と表現規制(2) 言論の自由

まあまずは当然「表現の自由」の話をしなきゃならんわけですが、話が大きすぎてどっから話を始めていいのかわからないですね。

日本では日本国憲法第21条とかで「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とかって大々的に宣言されているわけですが、表現の自由ってものは歴史的には(他の「基本的人権」に比べても)そんな歴史の長いものではない。世界的はせいぜい米国独立戦争のころからで、19世紀でも表現の自由とか保障している国はめったになかったし、20世紀になってもそんな一般的ではない。まあ1948年の世界人権宣言とかでも触れられてますが、そんな無条件のものではない。まあ少し考えただけでも、嘘を言う自由があるのかとか、ふつうの人のプライベートなことを暴く自由があるのかとか、人を傷つけるようなことをいう自由、言葉で暴動を扇動する自由なんてのがあるの(あるべきなのか)かってってのはかなり難しいことはすぐにわかると思います。

法律ってのは人間が決めたものなので、どうやって決めるかによって内容が変わってくる。日本国憲法もアメリカの進駐軍の人たちが決めたんだからあれだ、なんていう人々もいるくらいなわけで、なぜある法律や憲法が正しいのかっていうのはその法律以外の方法で正当化する必要がある。

一般に、「人間は〜の権利をもっている」とかっていうときの正当化の方法は大きく分けていくつかあります。一つは正当な手続きを介して決められたものだから正しい、みたいなやつ。日本国憲法の表現の自由の保護は正当な手続きによって定められたものだから正しいのだ、みたいな。私憲法を定める際の正当な手続きがどういうもんなのかよくわからんです。明治憲法から日本国憲法になる時にどういう手続きがなされたのか知らんし、そもそも明治憲法の正当性はどうなっているか、なんで天皇陛下はそんな偉かったのか、とか考え始めると混乱しちゃいます。ははは。これは憲法学者の間でいろいろ議論されてるんじゃないですかね。

二つ目は、人間が作った法律がどうあれ、それ以前になんか自然な法(自然法)とでも呼ぶものがあるのだ、みたいな考え方です。「自然法」思想ですね。法律できめる以前に人々は当然の権利をもっている、なんてのかが「自然権」思想なんてよばれます。人間の権利は人間が決める前に神様や天が決めているのだ、ってなると天賦人権説とかいわれますね。こういう自然法とか自然権とか言って近代で一番影響力があったのはおそらくジョン・ロック先生の『市民政府論』での理論なんですが、ロック先生が自然の権利だって主張するのは生命や財産に対する権利で、言論の自由だの表現の自由だのってのはあんまり見かけないですね。ロック先生の影響を受けたフランス啓蒙思想のヴォルテール先生の「私はあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」みたいな名言は有名ですな。ただしこれの出典がどこかは私は知りません。しかしこういう文脈で言われる言論の自由みたいなのは、宗教的な信念に関する言論だったり、政治に関する言論だったりして、なんでも好きな事を言える自由ではなかったはずです。それにまあ自然法だの自然権だのってのは、それってどんな自然な法や自然な権利があって、それをどうやって知ることができるの?誰が決めたの?みたいな疑問がいつもつきまとっていてなかなか難しい。でもこういうのが明治時代に「天賦人権論」みたいな名前で輸入された。

三つ目の正当化の方法は、帰結主義とか功利主義とか呼ばれるタイプの正当化の方法です。基本的に、言論の自由とか表現の自由とかってのを認めておくと、結果として人々が幸福になったり社会が正しい方向に進歩したりするからそういうものを認めておくべきなのだ、みたいな議論になります。一番有名なのはJ.  S. ミル先生の『自由論』ですわね。この本は本当に人類史上に残る名著の一冊なので、少しでも政治や哲学みたいなのに興味ある人は必ず読んで欲しい本です。授業でいつも言ってるんですが、私の生涯のベスト10ぐらいの本の1冊です。

ミル先生によると、言論の自由はほぼ絶対的に保証されるべきなんすよね。まず当然のことながら、政府による暴虐とか圧政に抵抗するために必要だ、と。政府が悪いことしてたら「悪い奴らだ!」って言わなきゃならんすからね。でもミル先生が生きてた19世紀なかばには、そういう目的のための言論の自由は当然視されてるから言うまでもない、と。イギリスは進んでますね。さすが先進国(まあそこに至るまでには各国で血と汗をともなった活動があったわけです)。さらに重要な理由があるよ、と。ミル先生にとって重要なのは、正しい意見をいう自由と言うよりは、まちがっているかもしれない意見をいう自由、まちがってるとおもわれる意見をさえ発言される寛容さなんだ、って授業では説明してます。第一に、今はまちがってると思われてる主張も、実は正しいことがあるじゃん、と。「それでも地球は回ってる」みたいな感じですね。第二に、間違ってるとおもわれる意見にも部分的には鋭いところがあって、そこはちゃんとした意見を作っていく時にも役に立つから喋らせといたほうがいい、みたいな。まあネットとか見てても、頭から尻までまちがってる人や意見ってのは滅多になくて、部分的にはけっこういいこと言ってることも多いですからね。

第三に、自分と反対の意見のひとと自由に討論しないと自分が信じてることの根拠を忘れちゃうから、と。これおもしろいんですよね。なぜ意見のことなる他人の意見より自分の意見の方が正しいの理由をちゃんと出せないんだったら、ただまちがった意見を思い込んでいるのとぜんぜん変わらないよ、と。「地球は太陽の周りを回っている」て真理だって、「えー、太陽が地球の周りを回ってるんじゃないのー?」っていう人と議論してその人を説得できる理由を提出できなきゃ相手と同じ程度にまちがっていることを信じてるのかもしれない。実際、私は「地球は平たい」とか「太陽の方が回ってるんだ」とかって人と議論したことないから、こういうのがどうやって正当化されるのかよくわからんですよね。試してみてください。たいていの人は答えらんないんじゃないかな。それは議論をしたことがないせいだ、と。

第四に、ちゃんと自由な討論とかして自分の意見や信念を時々生き生きとさせないと、意見が生活に与える影響を失っちゃう、ってんです。これはちょっとわかりにくいんですが、たとえば「大学教員は勉強するべきだ」みたいなことを信じていても、時々勉強しない大学教員をディスってみたり、「もう勉強なんかしなくてもいいんちゃうかな」とかいう人々を説得しようとしてみようとしないと、意見の威力やそれが本当に意味していることを忘れちゃうんですよね。その結果、「勉強するべきだ」みたいな正しい意見は知っていても、それを生活に反映することができなくなる。一方いつも他人をディスっていれば、「毎日ちょっとずつでも勉強したりブログ書いたりしないとなあ」みたいなことを思い出してまあ実際にそうしてみたりするわけです。授業では法然先生や親鸞先生の「なむあみだぶつ」みたいなんだって最初は他の流派の人たちから「なんで南無阿弥陀仏唱えただけで極楽往生できるんだ」みたいに質問されて議論して、「やっぱりうちはなむなむだけで!」とかになったわけだろうからねえ、みたいな話してます。ははは。首になるかもしれません。

まあこんなわけでミル先生によると、意見は多様な方がよいのですわ。そのほうが自由な討論が促進されて、結果的に社会や人類全体が進歩するし、その結果人々はより知的・道徳的に向上したり、より幸福になったりするわけです。

さて問題は、こういう手続だの自然権だの功利主義だのによって言論の自由とかが大事だと言えるとして、んじゃただ単にエロい表現とかも表現の自由っていってほごされるべきなのか、みたいな話ですわね。前置き長過ぎますね。ははは。

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