カント先生とセックス (3) 自分の体であっても勝手に使ってはいけません

まあ性欲はそういうわけでいろいろおそろしい。だいたい、いろんな犯罪とかもセックスからんでることが多いですしね。性欲は非常に強い欲望なので、道徳とバッティングすることがありえる、っていうより、他人の人間性を無視してモノに貶めるものだっていうんでは、ほとんど常に道徳とバッティングしてしまう。

例の人間性の定式「人間性を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え」にてらして考えてみると、性欲とセックスは相手を自分の欲望を満たすための単なる手段にしてしまうわけで、どうすれば同時に目的として扱うことになるのか難しい。

まあふつうに考えれば、床屋さんやマッサージ屋さんと同じように、相手が自律的・自発的に望んでいることを尊重すればいいんちゃうか、と思いたいところですが、カント先生はそれじゃ満足しないみたいなんですね。ここらへんちょっと入りくんでいてわかりにくいのですが、性欲とセックスは人間をモノに貶める行為であって、他人をモノとして扱うのが許されないだけでなく、自分自身を(自発的・一時的に)モノとして提供することも不道徳で許されません、みたいな論理のようです。だから売春とかもだめ。床屋さんやマッサージ師さんとは違う。あれは技術を売っているわけだけど、売春は自分をモノにおとしめてその体を売ることだ。実は、(一時的な)恋人関係・愛人関係みたいなのでさえだめなんですわ。それはお互いを性的傾向性にもとづく愛によってモノにしてしまう関係である。

カント先生はこんなふうに書いてます。ちょっと長いけど、いつか使うために写経した。

人間は、当人も物件ではないのだから、自分自身を意のままに処理することはできない。人間は自己自身の所有物ではない。それは矛盾である。なぜなら、人間は、人格である限り、他の事物に関する所有権をもつことのできる主体だからである。さてしかし、彼に人間が自己自身の所有物であるとしたら、人間は、その当人がそれに対する所有権をもつことのできる物件であることになろう。しかし、とにもかくにも人間はいかなる所有物ももたない人格なのであり、したがって、当人がそれに関して所有権をもつことのできるような物件ではありえない。なぜなら、実際、同時に物件でも人格でもあること、換言すれば、所有者でも所有物でもあることは不可能だからである。

したがって、人間は自分を意のままに処理することはできず、人間には自分の一本の歯もその他の手足も売る資格がない。さてしかし、ある人格が自分を利害関心に基づいて他人の性的傾向性を満足させる対象として使用させる場合、すなわち、ある人格が自分を他人の欲望の対象にする場合、その人格は自分をひとつの物件として意のままに処理しているのであり、それによって自分を物件にしている。他人はその物件で自分の欲を鎮める。ローストポークで自分の空腹を満たすのと同様に。ともかく、他人の傾向性は性に向かうのであり人間性に向かうのではないので、この人格がその人間性を部分的に他人の傾向性に与えること、そして、それによって道徳的目的という点で危険を冒していること、それは明らかである。

したがって、人間は他人の性的傾向性を満足させるために、利害関心に基づいて自分を物件として他人の使用に供する資格をもたない。なぜなら、その場合、その人の人間性は、ひとつの物件として、すなわち誰彼なくその人の傾向性を満足させる道具として使用される危険を冒すからである。(『コリンズ道徳哲学』39節「身体に対する義務について──性的傾向性に関して」、御子柴訳)

我々自身は我々のものではない、っていう主張は目をひきますね。「我々は自分(特に自分の身体)を自由に処分することができるのか」ってのは生命倫理とかフェミニズムとかで非常に議論されているところですね。自殺の自由はあるか、とか。カント先生ははっきりないって言います。これはずっと一貫してる。売春の自由とかってのも認めないわけですね。ただし、「私の体は私のもの」みたいなフェミニストの標語をカント先生が認めないかどうかはわかりません。フェミニストの意味では認めるんちゃうかな。

カント先生による自殺の禁止の議論は倫理学のテストで出題されるかもしれませんね。「人間性の定式」では「あなた自身のうちにあるものにせよ、他の人のうちにあるものにせよ、その人間性を単なる手段として扱わず〜」っって言われているわけですが、この「あなた自身の」の方はわすれられやすい。他人だけじゃなく自分も単なる手段としてあつかってはいかんのです。

だいたい、自殺とかってのは苦しいことから逃がれたくて自殺したいと考えるわけですね。おそらく、死ぬことそのものを望む人はあんまりいない、っていうかおそらく現実には存在しない。「生きてんのがやになりました」とかってのは実はなんか夏休みの宿題しなきゃならないとか、そういう面倒なことが苦痛だからそれから逃げたいだけ。面倒なことがなくなれば死ぬことそのものを望んだり意志したりするっていうのは考えにくいですね。とりあえず生きてりゃ音楽聞いたり本読んだりできるし、ひょっとしたらいつかはうまいもの食ったりセックスしたりして楽しいこともあるかもしれないし。

んで、人生の苦しみから逃れるために自殺するというのは、自分自身とその生命を、苦痛を逃れるという目的のための単なる手段として扱うことになる、自分の体をたんなるモノとして処分することになる。だからだめっす、という議論です。これがうまくいってるかどうかはよくわからんですが、おもしろいこと言いますね。ちなみにカント先生はこの議論だけでなく、別のやりかたでも自殺の禁止を立証しようとしてます。


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