カント先生とセックス (6) 結婚が唯一の道徳的なセックスの条件です

セフレもカジュアルセックスも売買春もオナニーもだめ。ではどうしたらいいですか? 結婚だけが唯一の道です。

全人格を意のままにするという権利、それゆえ性的傾向性を満足させるために性器をも使用する権利を私はもつのだが、いかにして私は人格全体に対するここのような権利を獲得するのだろうか。──それは私が他の人格に私の全人格に対するまさにそのような権利を与えることによって、すなわちただ結婚においてのみ生じる。結婚は二人格の契約を意味する。この契約において、双方が相互に同等の権利を回復する。つまり各人が自分の全人格を他方に完全に委託するという条件に同意することで、各人は他人の全人格に対する完全な権利を手に入れる。もはや、いかにして性的交渉が人間性を低劣にしたり道徳性を毀損したりすることなしに可能であるかを、理性によって洞察できる。つまり、結婚がその人の性的傾向性を使用するための唯一の条件なのである。

自分のすべてを相手にあたえ、相手のすべてを自分が得る、という形での関係のなかでだったらセックス許されます。しかしここでカント先生がどういうことを考えているのかっていうのはなかなか難しい。ふつうのセックスは相手を性欲の対象のモノにすることだからだめだ、でも結婚セックスは相手をモノにして自分のものにするけど、自分も相手の所有するモノにするからいいのだ、みたいな感じですかね。でも、これと結婚してない恋愛関係・愛人関係とかの違いがよくわからない。

どうもカント先生が注目しているのは、恋愛や愛人関係では必ずしもお互いがお互いの「所有物」になるわけではないし、時には不平等なときがある。二股とか三股とか。一方だけがぜんぶを捧げて、片方は「いや私は私のもので、あんたのものじゃない、一発やったからって彼氏ヅラするな」とか言うこともありえる。それに対して、結婚してしまえば、「私が自分の全人格を他の人格に渡し、それによって他方の人格をそのかわりにえる」ってことになって、「それによって双方の人格は意志の統一を形成する」ってことらしい。これも難しいんですが、結婚してしまえば幸福も不幸も、満足も不満も二人一緒に味わうことになるのだ、とにかく夫婦は一体なのだ、みたいなことらしいですね。すげーロマンチックな結婚観ですね。これはおそらく結婚しなかった人にしか考えられない。永遠の中二病という感じですねえ。

まあ「相手を所有する」ってのはやっぱり相手をモノ、所有物として考えてるわけで、これがなぜ人間性の定式に反しないのか謎。

カント先生が結婚という条件をどう考えていたのかっていうのはいろいろ解釈の歴史があってちょっといまは追いきれない。一つ目立つのは、カント先生がルソー(なぜかルソーには「先生」つけたくない)から受け継いだ社会契約っぽい考え方をつかってるんだろう、って感じですね。ルソーの問題というのは、国家の成立や正当化を考える場合に、平和に協力して暮すために人びとは政府に従って、自分の自由を放棄しなきゃならないように見えるけど、それじゃ自由が失なわれてしまう。自分の自由を保持しながら、みんなとうまくやっていくにはどうしたらいいか?っという問題ですわね。「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従しない」ことはどうすれば可能か、みたいな感じで問われる。ルソーの答は、民主主義。勝手にふるまう自由をみんなが同じように放棄しながら、みんなが政治に参加し法と定め政治をおこなうことで、人民として一つの意志をつくりあげるとき、人びとは自分たちの意志にしたがっているという意味で自由である。選挙に行くと人間は自由になるのです。まあ法律とかも自分たちで決めていると思えば従う気になれるものですよね。選挙はぜひ行きましょう。

カント先生はこの発想を結婚にもちこんでいるんですかね。おたがいに他の人とセックスする自由を放棄し、二人で一体として合議制で(?)性生活を営むことによって、相手の自由を奪ったり人間性を貶めたりせずに楽しいセックスをすることができる、それはお互いに自由なセックスである、みたいな。「イエス/ノー枕」を両者が使用し毎夜投票をおこなうことによって、人間は自由になるのです。

まあよくわからないけどこのラインの解釈するのが主流っぽい。こういう解釈が可能なら、お互いの性的魅力以外の人間性に対する尊敬と、一対一での排他的な関係、あたりが重要だってことになるでしょうか。

まあ本当によくわからないんですが、こういうカント先生のセックス観は、男女の間の平等ってのもを重視している点ではなかなり近代的なんですわ。カント先生が愛人関係とか内縁関係を攻撃するのは、そこになんか不平等が入りこむ余地があるからみたいなんですよね。まあたしかに「私はあなたとかセックスしません」みたいな約束みたいなのが存在しなければ、モテる女性はたくさんの人とセックスできるだろうし、モテない男性はそれにバッグとか貢ぐだけ、みたいな不平等な関係になっちゃいますからね。もちろんその逆もある。

ふつうの若者が「つきあう」って言う場合には、「(場合によって)セックスする」という意味と「他の人とつきあわない、他の人とはセックスしない約束を結んでいる」「お互いの幸福を真剣に考える約束をしている」ぐらいの意味が含まれている気がしますね。これ、カント先生意味だったらある種の「結婚」をしていることになるのかもしれない。

まあそういうことで戸籍とかに載る意味での「結婚」が大事なんじゃなくて、二人の間の尊敬と排他性とケアみたいなのが大事なんだろう、とかって解釈するくらいでいいんかなとも思います。となれば一対一でちゃんとおたがいをよく知っておつきあいしてセックスするのはカント先生から責められずにすむかもしれませんので、みなさんもそれくらいを目指したらどうでしょうか。


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