パーソン論参考資料『妊娠中絶の生命倫理』でのトゥーリー論文の解説

自分で書いたトゥーリー論文とウォレン論文の解説を公開してなかったことに気づきました。下の本の「編者解説」の草稿の一部です。買ってくださいー。

妊娠中絶の生命倫理
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ここまで見たように(そして本書に収録した他の論文でも批判されているように)、トムソンの「身体に対する権利」による中絶の擁護論には難点が多い。そこで、中絶を正当化しようとするならば、胎児はどのような権利をもっているのか、どのような道徳的配慮を要求する資格の存在なのかという問題、つまり、胎児の道徳的地位の問題を考える必要がある。そこで提出されたのが、権利をもった「ひと」(person)であるための条件を分析し、胎児はいまだ「ひと」ではないために中絶は許容されるとする「パーソン論」と呼ばれる議論である1

「パーソン論」の立役者の一人はマイケル・トゥーリーである。トゥーリーは米国の哲学者であり、生命倫理の他にも形而上学や認識論の分野でも業績がある。
日本ではこの論文はよく知られており、「パーソン論」の代表論文とされているが、議論の筋はかなり独特であり、必ずしも多くの哲学者に共有されているものではないことに注意が必要である。

トゥーリーの問題意識は、中絶の問題は、従来の中絶に関する議論のように、胎児が「人間」であるかどうかを議論するよりも、直接に胎児は生きる権利をもっているかどうかを議論するべきであるということである。たしかに胎児が人間の胎児であることは間違いがない。しかし、胎児は生きる権利、 生命に対する権利をもっているだろうか? トゥーリーは「生命に対する重大な権利をもった存在者」を「ひと」と定義する。ここで、トゥーリーが用いている特殊な術語としての「ひと」は、私たちの使う一般的な意味での「ひと」とはまったく違っていることを留意してほしい。ここでの「ひと」は「生命に対する重大な権利をもった存在者」を指すために規約として取り決められた専門用語である。このような論文を読む場合は、常に頭のなかで「ひと」を「生命に対する道徳上の権利をもっている存在」のように置きかえて読む必要がある。また「パーソン」は物件(単なるモノ)と対照される意味での「人格」つまり「ひと」という意味であり、性格や品性という意味での「人格」と混同しないように注意してもらいたい。

さて、トゥーリーの議論の粗筋は次のようになる。(a) 「AはXに対する権利をもつ」ということは、「他の人はAからXを奪うことを慎しむ一応の責務がある」ということを意味する。たとえば、私が自分の車に対する権利をもっているということは、他の人は私の車を壊したり奪ったりしないようにしなければならない、ということを意味する。しかしこれは私が自分の車をそのまま持っておきたいという欲求をもっているからであって、もし私が自分の車を壊してほしいと思っているならば、他の人が壊してもかまわない。したがってトゥーリーは(a’)「AはXに対する権利をもつ」ということは、「もしAがXを欲求するならば、その場合、他の者にはAからそれを奪うような行為を慎む一応の責務がある」ということを意味しているのだ、という。

次にトゥーリーによれば、(b)あるものを欲求するためには、その主体はその対象についての概念をもっていなければならない。たしかに、私が「車を盗んでほしくない」という欲求するためには、「車」や「所有する」「盗む」という概念を理解している必要があるだろう。そしてさらに、(c)自分が「生き続けたい」と欲求するためには、「自分」や「生きる」という概念をもっていなければならない。

ところが、(d)猫や胎児は自己意識をもっていない。言い換えると、「自分」や「生き続ける」という概念をもっていない。(この主張はわかりにくいかもしれない。自分が生き続けること、あるいは自分が死ぬということを理解することはたしかにかなり高度な能力である。「生き続けたい」と思うためには、外界や他の人々と区別された「私」を意識しなければならないし、また今現在の自分と1年前の自分や1年後の自分が同じ持続した自分であることを理解する必要がある。)

したがって、猫や胎児は「自分が生き続ける」ということを欲求できない。そのため、生き続ける権利(=生命に対する権利)を持つことができない2。したがって、胎児は(トゥーリーの定義での)「ひと」ではない。

このトゥーリーの議論はかなりトリッキーに見えるだろう。特に(a’)の権利と欲求の関係についての主張は不明瞭でかなり疑わしい。トゥーリー自身が気づいているように、たとえば寝ている人や意識を失なっている人は生きつづけたいという欲求を失なっているが、生きる権利を失なっているとは思われないし、人生に希望を失なって死ぬことを欲求している若者を殺すことはやはり不正だろう。またたとえば、生命保険に加入している人は自分がかかっている病気についての概念をもっていなくてもその病気を治すための治療費を受けとる権利があるだろう、という批判がある3も参照。]。こうした難点から、トゥーリーは1983年に出版した論文と同名の書籍Abortion and Infanticideでは本論文の立場を捨てている。

さらに新生児もまた自己意識をもっていないので生命に対する権利をもたず、場合によっては死なせることも許される、という主張はかなりショッキングなものだろう。同じように無脳症の幼児や認知症の高齢者、脳死者なども生命に対する権利をもたないことになる。こうした私たちの道徳的直観に反する点は(日本国内以上に)英米でも強い反発を呼んでいる。

なお、この解説では触れることができないが、トゥーリーの立場の主張が成功しているか否かは別として、この論文後半の他の線引きの代替案と潜在性の議論に対する批判もまた巧妙で重要なものであることをつけ加えておきたい。

脚注:

1 英米ではpersonhood argumentと呼ばれることがある。
2 ここで、猫もまた(生き続けることではなく)苦しめられないことに対する欲求はもつだろうから、「苦しめられない権利」はもつことができるかもしれないことにも注意しておく必要がある。
3 Stevens 1984。Marquis(1989)の批判

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